私は、人には其々違う役割があるという考えを否定します。人間は、皆が同じ一つの目的のために生きている。だから、その中の一人が特別に恵まれているとか、特別に不幸な状態にあるとしたら、それはどちらも悪いことだから、気にかけるのが当然なのだ。
他人の幸運を気にしないという人は、他人の不運も気にしないと言うのだろうか? それとも幸福は気にしないが、不幸は大いに気にかけると言うのだろうか。私は、それは詭弁で誤魔化しだと思う。片方にだけ目を瞑って自分の心を誤魔化している。
他人の幸運を羨むのも、不運に同情するのも、ひとつの物事の表裏なのだから、片方だけ気にしないという考えは無理がある。だから、それは嘘なのです。どんなに達観しようが悟りを得ようが、他人の幸運が気にならない人など居ないのです。それなのに、自分は、そんな事気にしないよという人は、自分自身が羨まれる立場の人であるか、あるいは自分を欺いているという事なのです。
他人を羨むということは、自分の不運に同情するということです。自分の事を不憫に思ってはいけないなどと、そんな事はありません。他の人を思うのと同じように自分の事を思ってもいい。逆に、自分だけが不幸なわけではない、もっと不幸な人もいると思って自分を慰めるのも、やはり間違っていると思います。それが本当に不幸なのか幸福なのかよっく考えてみて、結果、やはり不幸だと思うなら、それが自分自身であっても助けるべきでしょう。誰かに助けを求めてもいいのではないかと思います。
自分を客観的に見ることは難しいので、少々のことで自分は不幸だって叫ぶことはできない。だから我々は、他人の幸福も不幸もよくよく気にかける必要がある。他の人と比べるな気にするなと言うのは間違っている。そういう説教をする人は、ろくに世の中を見てもいないし、人の心のことなど何も分かっていないのだと思う。
他人の不幸ばかり見て悩んでもいけないし、他人の幸福を見て羨んでばかりでもいけない。両方を見て悩み苦しむしかない。目の前にある現実に目をつぶって見ないふりをするわけにはいかない。それが自分の事であっても。
ピンバック: 七つの大罪 ~ 嫉妬(envy)について考える。 | Hollow Man – 神なき時代の「人生の目的」
世界を見れば、ろくな食事も与えられずに死んでいく子供がいると言う。日本の子供は、幸せだと言う人もいる。しかし、幸せなはずの子供が親からの虐待で殺されたり、いじめが原因で自殺したり、無免許運転の若者に殺されたり、学校の統廃合で自殺したりする。ご飯が食べられれば生きられるわけじゃない。